人生の節目と言われるその歳を挟んで、私も大きな出来事があった。
激動の30歳を振り返ってみようと思う。勿論、診断士受験のこともそうだが、
診断士受験と関係ない事も多いので、予めご容赦願います。
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【2007年6月】
忘れもしない、2007年6月某日。
今までの人生の中で一番ショッキングな場面に出くわした日。
私は母が入院している病院に向かっていた。
前日に「最近、母親の容態が思わしくなく入院した。」
前日に「最近、母親の容態が思わしくなく入院した。」
と弟からの電話を受けていた。
病院に向かっている途中、ここ半年の出来事を思い返していた。
発覚したのは、2006年12月末。
その様子と、癌の怖さの意味を理解していなかった私は、
医者からも、
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母は癌(胆のう癌)だった。
発覚したのは、2006年12月末。
この時点からは半年くらい前のことだった。
発覚したときは、まだ母は元気だった。
その連絡を受け、すぐに母に会いにいったが、
その連絡を受け、すぐに母に会いにいったが、
特に変わりもなく普段の母そのものだった。
その様子と、癌の怖さの意味を理解していなかった私は、
ほっと安心してしまっていた。
医者からも、
「進行度合い的にはステージ3(ほとんど末期)だが、癌も小さいから、手術ではなく抗がん剤治療で、弱らせてから手術できる機会を伺いましょう。余命とか、そういうものじゃないから、騙し騙しじゃないけど、様子を見ながら治療を考えていきましょう。」
という楽観的なものであったから、それを真に受けていた私は
何の根拠もないが、ああきっと心配ないんだなと思い込んでしまった。
検査入院から退院した後は自宅療養だったので、たまに顔を見にいったけど
検査入院から退院した後は自宅療養だったので、たまに顔を見にいったけど
普段どおりで特に具合が悪そうということもないように思えた。
ただお腹がちょっと重いということはずっと言っていたが。
胆のうの管を補強する意味で金属の管を入れる手術をする為に入院した。
郵送で贈った為、すぐに母からお礼のメールがきた。
ベッドに寝ていたのは、別人となった母だった。
「(え・・・。どうして・・・。)」
母の前で泣く訳にはいかなかった。
母の前では笑わないとダメだ。
そう思っても、自分の感情がそれを許さなかった。
気がついたら、病室を飛び出していた。
どのくらい時間がたったのだろう。しばらくして病室にいってみると
つづく
【2007年2月】
私の仕事が忙しくなり、なかなか会いにいけなくなった。
主に携帯メールで連絡をとっていたが、
あまりにも普通の会話をしていたので、
特に心配はしていなかった。まして死についてなど。
【2007年4月】
抗がん剤の影響か、癌の影響か、胆のうの機能が落ちているということで
胆のうの管を補強する意味で金属の管を入れる手術をする為に入院した。
入院したということで驚いて、病院に向かったけど、
思いの他、元気で、顔色も良く、普通に病院内も歩き回っていたので、
大したことなかったんだなと、安心していた。
【2007年5月】
母の日にちょっと高価なプリザーブドフラワーを贈った、母は花が好きだったから。
郵送で贈った為、すぐに母からお礼のメールがきた。
そのメールの何気ないやり取りの中で、結婚を考えている彼女に会ってほしいと
切り出してみたが、実は最近は体調が芳しくないから、もうちょっと後にしてくれという。
きっと照れ隠しなのかな?と思った私はバカだった。
「薬が効いて、頭がぼうっとする事が多い、メールも自分で書いてる感じがしなくて、必死に書いてる。」
と言っていた。私はイマイチ意味を理解できなかった。
自宅療養の時には、抗がん剤は投与しないはず、
他の抗生物質などでそういう副作用があるのかな?と安易に考えていた。
風邪薬などで、眠くなるのと同じようなものか、と。
本当にバカだった、私は。
(後でわかったことだが)母をそういう状態にしていたのは、
痛み止めであるモルヒネだった。
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【2007年6月某日】
そんなことを思い出していると、病院に着いた。
ここ1〜2ヶ月ほど、仕事に追われ、母に会えていなかった。
母が入院しているという病室に叔父と弟と入った。
ベッドに寝ていたのは、別人となった母だった。
やせこけた、顔、体。
黄疸が出て、真黄色な顔、目、肌。
目に見える全ての姿が、これまで私の頭の中にある母親の姿と異なっていた。
「(え・・・。どうして・・・。)」
何も言葉を発することができなかった。
私は一瞬でパニック状態に陥った。
母の前で泣く訳にはいかなかった。
母の前では笑わないとダメだ。
そう思っても、自分の感情がそれを許さなかった。
気がついたら、病室を飛び出していた。
離れたロビーまで走った。
声を出して泣いた。
声を出して泣いた。
皆が見ていた。そんなことも気にする余裕もなく、泣き続けた。
どのくらい時間がたったのだろう。しばらくして病室にいってみると
まだ叔父と弟がいた。改めて母を見つめる。直視できないほど、やつれた姿。
母は寝ていたが、目が覚めたようで、私の方を見た。
「わざわざ、ごめんね・・・。」
元気が無い、しかし、しっかりとした口調でそう言った。
「(なんで謝るんだよ・・・)別に大したことないよ。体調は大丈夫?」
精一杯、平静を装って、私はそう答えた。
「まぁ、、、しょうがないよね・・・。」
母は、もう全てを悟っているかのようにそう言った。
思わず、母の手を握りしめ、
「何言ってんだよ、しょうがなくねえよ、まだまだ、これからでしょ・・・。」
そう返したが、握り締めた母の手は点滴の影響か・・・、パンパンに膨れ上がり
黄疸で真黄色になっていた。
「わざわざ、ごめんね・・・。」
元気が無い、しかし、しっかりとした口調でそう言った。
「(なんで謝るんだよ・・・)別に大したことないよ。体調は大丈夫?」
精一杯、平静を装って、私はそう答えた。
「まぁ、、、しょうがないよね・・・。」
母は、もう全てを悟っているかのようにそう言った。
思わず、母の手を握りしめ、
「何言ってんだよ、しょうがなくねえよ、まだまだ、これからでしょ・・・。」
そう返したが、握り締めた母の手は点滴の影響か・・・、パンパンに膨れ上がり
黄疸で真黄色になっていた。
担当医に別室に呼ばれ、説明を受けた。
(この病院は母の家の近くの病院で、当初に癌治療を開始した病院ではなかった)
既に頭が真っ白になっていた私は、医者の言葉を理解するのに時間が掛かった。
「お腹が膨れているのが分かりましたか?癌性の腹膜炎、つまりお腹の中が癌だらけになっています。もう手の施しようがありません、痛みを取り除いてあげることしかできません。申し訳ないですが、いつ亡くなってもおかしくない状態です。今月中もつかどうか・・・。」
「(何言ってんだ?この医者は・・・)」とも思ったが、予想していた言葉でもあった。
「そうですか・・・。」
とだけ、答え、部屋を出た。
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