2009年1月9日金曜日

涙 ~激動の30歳ドキュメント4~

母が死んだその日のうちに、母を実家に連れ帰った。

涙は出ない。

どこか壊れたのかもしれない。



夜、母の事を想った。

決して贅沢はせず、慎ましく過ごしていた母。

本当に幸せだった?

楽しかった?



親不孝な息子、

社会人になっても迷惑ばかりかけてきた。

ようやく落ち着いてきたこの頃、

親孝行ができる歳になってきたと思ったのに・・・。

「親孝行したいときには親はなし。」

本当にその通りだ。

言い訳に過ぎないか。



翌日、お通夜が行われた。

親族のみで静かに行うようにしたが、

近くに住む友人達は参列してくれた。



まだ、人が集まらないうちに、ふと棺の中で寝ている母の

頬をさわってみた。

それは冷たく、硬直していた。

ここにはもう、母はいないのだ。



そう実感したのか、がこぼれた。

今まで、何かに抑えられていたかのように

はずっと、ずっと止まらなかったんだ。

その翌日の告別式もずっと。

まるで赤子のようだった。



そして母は焼かれ、本当に天に召された。

この現実を受け入れなければいけない。

悲しみは何よりも大きく、それは時間でしか

解決できないのだろうと思われた。

頭を意図的に切り替え、すぐに仕事に復帰した。

しばらく休んでしまったから、少しの間はその穴埋めで

気が紛れるだろう。



決して忘れない、忘れられない。

これから私ができることは、

私が幸せになることだ、それが母の願いだろう。

それが親孝行になることを信じよう。



つづく




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2009年1月6日火曜日

所得税率

ドキュメントの合間にちょっと小ネタを。

いやぁ、ちょっとしんみりしすぎちゃったな。

まだこの段階では診断士受験とは何の関係もないし。

まぁいいや。

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さて、皆さんは所得税って気にしてますか?

(勤め人の方は)給与明細から毎月、大金が差し引かれてるから

気にしていない人はいないでしょうけどもw

でも、所得税って、あまり気にも留めていないですよね?

私は特に気にも留めていませんでした。

毎月、総支給額から所得税・住民税、厚生年金、健康保険が差し引かれて

手取りが、幾らっていう感じしかなかった。



ところが、年末のプレゼン大会で賞金を獲得。

それが代表者の口座(つまりオイラ)に振り込まれることに

なったのだが、課税対象だって!!!(当たり前かorz)

それがイヤだったら、振込み前に、賞金を分配するメンバ全員の

リストに分配額を明記して提出しろだって。



そりゃ、その方がいいけどさ。

でも面倒くさいし、どうせ新年会の飲み代に消えるんだから、

誰か代表で受け取って、税金を控除した額を使用すればイイ!

ってなったんだけど、よくよく考えると、所得税率って

超過累進税率(参考:http://tt110.net/22syoto-zei/T-syotoku-zeiritu.htm)で

個人の年収が上がれば上がるほど、税率が高くなるんじゃねえか!



賞金を代表で受け取って、それが年収に加算されることになるから、

オイラが年間払う所得税自体が大幅に増えちゃう可能性もあるんじゃねえか!?

だって、賞金分の所得税だけじゃなくて、所得税率そのものが年収で決定しちゃうんだもの!

それは超NGです!!!

断固拒否します!!!

それを知ってか知らずか、同じことを事業部長の口座でやってくださいって

直に、お願いしたら、思いっきり断られた・・・。あなた、意外にケチやなw

細かいこと書くと、オイラの年収がバレそうになるので、この辺にしとこうw



その辺、いまHR(人事部)に確認中~!!!



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別れ ~激動の30歳ドキュメント3~

【2007年6月29日】

母の意識は日に日に、無くなっている様だった。

モルヒネの量も増え、これ以上は増やせないほどになっていた。

私は不謹慎かも知れないが、心の中で

「(もういいよ・・・、母さん、頑張らなくても・・・。)」

と思い始めていた。もう母のそんな姿を見ていられなかった。

それは母の事を思ってなのか、自分が耐えられなかったのか、

もう、よくわからなかった。



そんな中、母の容態が急に悪化していった。

心臓の動きが不規則になっていった。

私は母の手を握り、

「母さん・・・ありがとう。」

「俺はもう、大丈夫だから、心配しないで・・・。」

そう伝えた。母も意識が朦朧としている中、理解できたかは

わからないが、私と目が合った。うなづいているように思えた。

これが、母と最後に交わした会話だった。



それから、母は夜通し、必死に頑張っていたんだ。

心拍数が時折、200を超え、通常時の倍以上にもなっていた。

それは、まだ生きよう、生きたいと思う、母の生命そのものの動きだった。

そんな無茶な心臓の動きは永遠には続かなかった。



【2007年6月30日】

その瞬間、ドラマでもよく見るような、ピーという電子音とともに

母の心臓が停止した。呼吸も停止した。

それまで命の火が灯っていた母の目の光が一瞬で無くなった。

医者はお決まりのセリフを口にした。

これは現実なの?あっけなさすぎるよ・・・。

まだ現状を理解できないままでいるのか、

涙が出なかった。



私が30歳になる5日前の出来事だった。



つづく



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2009年1月4日日曜日

最後の日々 ~激動の30歳ドキュメント2~

【2007年6月某日】

自分の頭の中にある、当たり前の母親の姿とは

全く異なる姿を目にしたことが、あまりにもショックだった。

もう他の事が考えられなくなっていた。

今の私に出来る事があるのか?



翌日、会社に出勤して事情を話し、午前中に多少の引継をして

しばらく会社を休ませてもらうことにした。

せめて最後だけは、看取りたい。

それだけが、私に残された最後の親孝行だった。



幸い、仕事も過渡期でなかった為、上司も快く、了承してくれた。

同僚・部下には迷惑を掛けてしまい、申し訳ないが、本当に感謝している。



早速、身支度を整えて、実家に向かった。

危篤という状態ではないので、付きっきりという訳ではない。

ただ、面会時間はなるべく病院にいるようにした。

痛み止めのモルヒネの量が増え、痛みを無くす代わりに

意識も朦朧としていた。それでも息子の私が来ると分かるのか

話かけてくることもあった。

「会社は大丈夫なの?」

「迷惑かけてごめんね。」

ろれつが回らなくなり、聞き取るのも次第に難しくなっていったが

私の心配ばかりしていた。



母と二人きりの時間が続いていた。

ただ痛み止めの影響で、殆どは寝ている。

私は、母の顔の汗を拭いたり、手を少しの間、握ったり

するくらいしか、出来なかった。

母が目を覚まし、話かけてきた時に、少し会話をする。

そんな時間が続いた。



仕事は、朝・昼・夜にメール確認などをするくらいで、

済ますことができたので、ゆっくりとした時間が流れていた。

病院にいる間は、気を紛らわす為に読書をしていた。

そうでもしないと、気がおかしくなりそうだった。

母の容態は良くないが、安定していたので、面会時間以外は

私は実家に戻り、過ごした。

一人でいると、色々なことを考えてしまう。

殆どは、母のこれまでの人生、そして・・・私が抱く後悔の念だった。



(なんで、私の母親なんだ?)

(なにも、母は悪い事してないだろ?)

(他に死んでいい奴、たくさんいるだろ?)

(なんで?なんで?なんでだよ・・・)

(誰でもいいから、助けてくれ・・・)



そんな、どうにもならないことばかりを考えていた。

癌と分かってから、私は何をしてたんだ・・・。

もっといい病院なり、医者なり、探す努力をしたのか・・・。

こんなことになるなんて・・・。ちきしょう・・・。



母子家庭だった私達の最後の日々が少しの間、続いた。

そして、母に残された時間が無くなろうとしていた。



つづく



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